理念

(ダミーテキスト)ここはお寺の中にある幼稚園です。

いのちの入り口と出口があります。
誕生の喜びと別れの悲しみがあり、
いのちのやさしさときびしさが同居しています。
人生はつづく。

大きくて豊かないのちの流れの中に、
子どもたちはまだ言葉でうまく表現できないかもしれんせんが、
生かされて生きているのだと感じる機会がたくさんあります。
私たちはつながる。

幼稚園は子どもたちにとって初めての社会です。
社会には、仲間とともに健やかに成長し
幸せな日々を過ごすための、
いろいろな決まりごとがあります。
お互いが気持ちよく過ごしていくための作法をひとつずつ、
失敗と成功を重ねながら身に着けていきます。
社会はととのう。

子どもたちにとって、遊びは最高の学びです。
試行錯誤して創意工夫して
自分の世界に没頭して時間を忘れて遊びます。
遊びだからこそ真剣、真面目、集中して妥協をしません。
遊びはいきる。

つづく、つながる、ととのう、いきる。

歴史

ダミーテキスト)1490年(延徳2年)、室町時代から戦国時代中期まで佐世保地域を支配した宗家松浦氏の菩提寺として創建された。当初は宗家松浦氏の居城の1つで旧北松浦郡大野(現在の佐世保市瀬戸越)にあった大智庵城の城下に建てられていたが、建立後まもない1498年(明応7年)に同城が落城した際に兵火にかかり焼失、その後現在地に移ったといわれる。

江戸時代には寺の周辺に佐世保浦と称される漁村があった。1850年(嘉永3年)には吉田松陰が平戸遊学に向かう途上当寺に立ち寄っている。

太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)6月28日夜に佐世保市が空襲された際、海軍佐世保鎮守府の軍事施設に近かった当寺も山門を残して類焼したが、戦後本堂などが再建されている。

  • 福沢諭吉氏とのご縁

    明治2年、住職のひいひいひい爺さんは大分県日田市で儒学者廣瀬淡窓が開いた私塾、成宜園(かんぎえん)に遊学しました。おそらくそのご縁によってひいひい爺さん東京に上り、福沢諭吉の慶應義塾に入塾しました。
    (福沢諭吉は大分県の中津出身です)成績優秀につきスコレー賞を貰ったとありますから、今でいうスカラーシップ(奨学金)を受けたのかな?と思います。
    帰郷の際先生から、「これからのお寺はご老人ばかりでなく子供のうちから教育するべき」と教示を受け、資金の足しにと『福翁百話』5冊を寄贈されたようです。
    現存しませんので指示通り売却したと思われます。

  • お遊戯会
    日曜学校の様子

    進徳幼稚園開園

    福沢諭吉さん没後、明治39年10月進徳幼稚園は開園しました。20人弱での開園だったようです。
    明治43年、幼稚園の2階には現在の佐世保市立図書館の前身、通俗図書館が開館しました。
    開園当初より日曜学校を開き、宗教教育を通じて、人生観や生命観、道徳、倫理などの涵養に努めていました。
    ひい婆さんはこれらのご縁によって、佐世保で初めての女子大生として東京女子大に学び、戦後進徳保育園の設立に至りました。

  • 明治三十三年以降の写真

    教法寺の巨大な本堂

    佐世保鎮守府が置かれることが決まったあたりでしょうか。ここから佐世保村はめきめきと軍港として発展しました。当時は教法寺の周辺はまっさらな更地だったようで、巨大な本堂の存在感がすごいです。立派な松の木の下にあった山門は、現在は進徳幼稚園側に移っています。

  • 昭和二年以前の写真

    服部中佐の銅像

    写真は昭和2年のもの。昭和20年の佐世保空襲で焼失してしまうまで、教法寺の本堂は佐世保の一大ランドマークでした。ちなみに、今も毎年美しく色づく銀杏の木はこの頃にも健在(これからぐんぐん成長していきます)。ちなみに、境内には「服部中佐」の銅像があり、当時は佐世保の名所のひとつにもなっていたようです。ポストカードにもなっていましたよ! 服部中佐のことを調べてみましたが資料が少なく、義和団事件で非業の死を遂げた…・・という情報しかありません。何かご存知の方がいらっしゃいましたらぜひお寄せください。

  • 明治七年の写真

    学びの継承を遺す

    教法寺が所有する中で最も古い家族写真です。一番左に移っているのは家長、おそらく、ひいひいおじいさんのお父さんかおじいさんでしょう。明治7年と言えば、ついさっきまで江戸でしたよ、と言っても過言ではない時代。そんな激動の時代に最新鋭の機材で撮影された家族写真にいったいどんな想いが込められていたのでしょう。今となっては知る由もありませんが、福沢諭吉先生の学びを継承したことの証明として遺っているかもしれないなと、とても感慨深さを感じます。

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